- 45 -2-2)では参加と強制の問題について考えました。私たちは、住民に参加を強くうながし、行政サービスを地域に丸投げする状況を求めません。反対に、「公」=国や地方自治体の財政責任を明確にし、「共」=コミュニティや NPO などの中間団体、ソーシャルワーカーの強化を図り、これらが土台となって「私」=住民や企業の自治が可能となる、そのような社会ビジョンを提示したいと思います。 「公」が責任を果たしつつ、人びとの生存・生活の「必要(ニーズ)」を満たすために、「共」が「私」をつなぎ、地域課題を解決していく 「公・共・私のベストミックス」をめざして、どのような枠組みを作っていくのかが、それぞれの地域ごとで鋭く問われていくのです。 33.. 私私たたちちかかららのの提提言言 11))頼頼りりああええるる社社会会〜〜誰誰ももがが自自分分ららししくく生生ききるるたためめにに〜〜 私たちは誰かに頼ることをいけないこと、情けないことだと考えがちです。ですが、哲学者のジョナサン・ウルフが指摘するように、現実には、私たちは誰もが、お互いに依存しあいながら生きています(ジョナサン・ウルフ『正しい政策がないならどうすべきか』)。 たとえば、誰の世話にもならずに生きていける、そう主張する大金持ちがいるとしましょう。ですが、その人の乗る高級車は、「私たち」が作った道路なくして移動はできないはずです。 必死に働いてお金をためて大学を卒業したと語る高齢者がいるとします。ですが、その程度の授業料ですんだのは、「私たち」の払ったお金を使って、国から大学に補助金が入り、あるいは奨学制度を整えたからではないでしょうか。 生まれれば、すべての「私たち」が年長者の世話になり、すべての「私たち」は、学ぶときには先生に、病気になればお医者さんに、死ぬときは火葬場の人たちのお世話になっているはずです。あえていえば、誰にも頼らずに生きている人間など存在しないのです。 私たちは、一人ひとりが自分の持つ価値を十分に発揮し、主体的、能動的に生きていくことが何よりも大事だと考えています。ただ、そのためには、逆説的ですが、足元にお互いが「頼りあえる」前提がなければならない、と考えています。 私たちは、みなが自分の足で立ち、自分の意志で未来を決めることができるよう、2040 年を目標に、神奈川県を「頼りあえる社会」へと変えていきたいと考えています。それは、生まれた土地で育ち、学び、働き、愛する人と出会い、そして住み慣れた地域のなかでこの世に別れを告げる、そんな一人ひとりの「自由」を保障しあう社会にほかなりません。 では、その「頼りあい」を可能にするための条件をどのように整えるべきでしょうか。 日本の社会保障は、繰り返し指摘しましたように、「申請主義」が前提になっています。問題なのは、申請を行う際、固定的な家族、親族構成を前提とした制度が積みあがってしまい、機能不然を起こしていることです。 1990 年代後半以降、妻は専業主婦で子どもが二人という「標準世帯」モデルは、むしろマイノリティであり、全体の 5%にも満たないといわれています。ところが、制度は、この変化についていけていません。その結果、夫婦共稼ぎの世帯では、育児・保育のため、あるいは親の介護のために女性が離職を余儀なくされるケースが続出しています。
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